はじめに
社会保険労務士が顧問先企業と関わる中で、「事業承継問題」は避けて通れないテーマとなっています。高齢化が加速する昨今において、企業経営者の高齢化も必然的に進行しています。顧問社労士に対して直接的に事業承継に関する相談が持ち込まれているかどうかは別としても、多くの経営者にとって重要な悩み事の一つとなっているのが実情です。
この点、中小企業庁からは事業承継やM&Aに関するガイドラインやマニュアルが多数公表されており、いずれも非常にわかりやすく整理されています。制度の詳細な解説はこれらの公的資料に譲るとして、本稿ではそれらの要点を踏まえながら、社労士が事業承継やM&Aにどのように関わり、支援できるのかという視点で整理してみたいと思います。
事業承継の種類
中小企業の経営は、経営者の高齢化などの事情により、いずれは清算するか、あるいは誰かに事業を引き継いでいくかの選択を迫られます。後者の「事業承継」には、主に①親族内承継、②社内承継、③第三者承継(M&A)の三つの方法が考えられます。

事業承継の重要性
上記の方法を通じて事業を円滑に引き継ぐことは、従業員の雇用や取引関係の維持、さらには企業価値を持続的に発展させるために不可欠とされています。
2019年当時の統計によると、2025年までに70歳を超える中小企業経営者は約245万人に達すると見込まれていました。そのうち半数にあたる127万人が後継者未定とされており、もし事業承継への対策を怠れば、約650万人の雇用と22兆円のGDPが失われる可能性があると推計されていました。この点、昨今のM&A件数は増加傾向にあるものの、依然として事業承継問題は喫緊に対応すべき課題だといえます。
M&Aの種類
M&Aとは、「Mergers(合併)Acquisitions(買収)」の略称です。我が国では、会社法の定める組織再編(合併や会社分割)に加え、株式譲渡や事業譲渡を含む、各種手法による事業の引継ぎ(譲り渡し・譲り受け)と広く定義されています。
このM&Aには、大きく分けて二つの種類があります(厳密には目的の違いともいえます)。一つは、第三者に事業を承継させる場面で用いられる「承継型M&A」、もう一つは事業拡大の手段として活用される「拡大型M&A」です。この点、一般的にM&Aと聞くと、「吸収合併」や「買収」といった後者のイメージを持つかもしれません。

M&Aの流れ
社労士がM&Aに関与していくためには、前提知識としてM&A手続きの基本的な流れや全体像を把握しておく必要があります。したがって、以下において、簡単に手続きの流れを確認したいと思います。
M&A業界では、まず譲渡希望企業を見つけることが最重要とされています(ゆえに一部のM&A仲介業者による積極的な営業活動も見受けられます)。譲渡希望企業が見つかると、売り手側である当該企業や仲介業者(セルサイド)が企業価値の評価を行い、企業概要書(IM)を作成して譲受候補企業に「良い会社がありますよ!」とアプローチをします。
一方、譲受側(バイサイド)は会社名等を伏せたノンネームベースのIMを検討し、興味を持った場合には秘密保持契約を締結したうえで、より詳細なIMの内容を確認します。バイサイドが、M&A取引を進める判断に至れば、意向表明を経て、通常はセルサイドと基本合意を締結します。この基本合意により、バイサイドに独占交渉権が付与され、買収価格の適正性を判断するためのデューデリジェンス(DD)が実施されます。バイサイドとしては、基本合意契約の締結段階から、統合後を見据えて企業文化の違いをすり合わせる準備を進めることが非常に重要です(このM&Aにおける統合作業をPMI(Post Merger Integration)といいます)。
社労士への相談場面
ところで、社労士に対しては、どのような形でM&Aに関する相談が寄せられるのでしょうか。前述のとおり「承継型」と「拡大型」という二つの種類に対応して、相談のタイミングは大きく二つに分かれます。一つは、事業承継を考えて「誰かに会社を売りたいが、どこに売ればよいのか」というケースです。もう一つは、「事業拡大の一環としてシナジー効果が見込める企業を買収し、さらなる利益拡大を目指したい」というケースです。そして、いずれの場合も「この話、そもそも誰に相談すればよいのか分からない」という疑問に行き着くことが少なくありません。
ここで重要なのは、事業承継やM&Aの話題を社労士が経営者から引き出せるかどうかにかかっていることです。「事業承継やM&Aは社労士の専門分野ではないから」と対応を避けてしまえば、当該顧問先企業に他に親密に相談できる士業が居ない場合、M&Aの闇に潜む罠に掛かり、企業が危機的な状況に陥る可能性があります。それは、結果的に顧客満足度の低下にもつながりかねません。
社労士が相談を受けた時の対応パターン
承継型M&Aの場合
事業承継やM&Aに関する相談は、一般的には税理士が最初の相談窓口となることが多いと言われています。しかし、企業規模や状況によっては、給与計算や社会保険手続き、日々の労務相談対応を担う社労士の方が、経営者にとってより身近な存在となっている可能性も高いのです。なぜなら、例えば「自分の子に事業を引き継ぐべきか」「現役員との連携がうまくいくか」「社員承継を検討する際に誰を後継者とすべきか」といった、経営者が抱える悩みの多くは突き詰めると「ヒト」に関する問題だからです。こうした「ヒト」にまつわる課題は、社労士こそが最も相談を受けやすい立場にあります。
拡大型M&Aの場合
社労士をはじめとする所謂士業は、M&A仲介業それ自体を行う専門家ではありません。しかし、少なくとも全体を把握、コントロールできるようになる必要はあろうかと思われます。というのは、残念ながら昨今のニュースでも報じられているように、極めて悪質なM&A関連会社の存在が指摘されているからです。決して大切な顧問先企業が悪質業者とマッチングすることはあってはならず、日常的に勉強会や交流会などを通じて、信頼できる人脈を構築しておくことが欠かせないといえます。

M&Aの場面で社労士が関われる業務
承継型M&Aの場合
承継型M&Aにおける経営判断は、今すぐ解決すべき喫緊課題というよりは、「〇年後位にバイアウトしたい」といった将来的な展望として顧問社労士に持ち込まれることが実際には多いです。したがって、顧問社労士としては経営者と中長期的に伴走していくことになります。そこで、そのような中長期路線で重要なのは、それなりに時間をかけて「売れる企業」に仕上げていくという視点です。具体的には、将来の労務DDで問われる事項をあらかじめ整備しておくことが求められます。この点に関して、有益なツールとして、社労士認証制度に基づく「経営労務監査」を紹介します(詳細は次回以降)。
拡大型M&Aの場合
拡大型M&Aにおける社労士の参入場面は、買い手側(バイサイド)としての関与が多いといえます。すなわち、M&Aを検討する企業が既存の顧問先であれば、労務DDや統合後のPMI支援業務の依頼が想定されます。また、労務DDについては、新規のスポット依頼で受注する場合も少なくありません。
次回以降、承継型の場面で顧問社労士が行う中長期的な準備の具体例や、拡大型における労務DD・PMIの実務的なポイントについてさらに掘り下げて論じていきます。

出典:中小企業福祉事業団/NETWORK INFORMATION 2025年11月号(Vol.162)
社会保険労務士 佐藤 裕太
TRY-Partners社会保険労務士事務所 代表
経営者のホットライン・確実な問題解決
~経営者・人事担当者向けの実務情報を配信中~
■ 全国社会保険労務士会連合会 登録番号 13240356号
■ 東京都社会保険労務士会 会員番号 1331899号
■ 東京都社会保険労務士会千代田支部 開業部会 委員

